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【哲学カフェ】#02「好きってどんな気持ち」振り返り

 



2018/03/02哲学カフェ振り返り

「好きってどんな気持ち」

はじめに

 先日は個人カフェに参加していただきありがとうございました。振り返りの報告が遅くなってしまい申し訳ありません。どんな話題が上がったかについて、その一部を簡単にですがまとめさせて頂きました。

 

 

 

山岸グループ

好きが冷める瞬間

 ある人が、「その瞬間には確かに起こっていた感情が、その後では、ふと我に返ったように消えてしまうことがある」という経験を話してくれました。

それはまるで、注がれる熱湯の流動に乗って、くるくると舞い上がっていた茶葉が、やがてポットの底に沈んでしまうようだと。

  山岸グループでは、そんなエピソードと冒頭でのブレストを踏まえた上で「好きが冷めてしまう瞬間」「それはどうしてなんだろう」という問いから対話をスタートしました。各人がそれぞれの経験を語ってくれました。

 

・崇拝の対象

 別の人のお話です。その人には大好きなマイナーバンドがあって、ライブにも通い続ける数年来のファンでした。ある日のライブで、ついにバンドのメンバーから個人的に声をかけられたそうです。一見すると、憧れの人から顔を覚えられ話しかけられるというのは、ファンにとって嬉しい出来事であるはずなのに、その人は、なぜかその瞬間に、そのバンドへの今までの気持ちがガラガラと崩れていく音を聞いたそうです。その日を境に、現場からもフェードアウト気味になってしまいました。

 そのバンドへの好きは「崇拝」に近い感情だったのではないかという意見が話し合いの中で出てきました。

 ここでの崇拝とは、超人間的、非世俗的なカリスマ性に深く魅了され、その可能性を強く信じ込む気持ちとでも言いましょうか。私たちがステージ上の表現者に馳せる想いの一つに、「夢や希望(=可能性)を信じたい」があるかと思います。真実の愛を唄う。完全な美を体現する。これらは、自分の生きる「あまりに現実的」な現実を超え出る可能性を私たちに魅せてくれます。

 その人にとって、そのバンドは、フロアとステージという決して繋がることのない距離で隔てられた遥か彼方の存在であり、だからこそ崇拝の気持ちが維持されていた。そんな雲の上の存在が、自らステージを降り、自分と同じ目線から、自分と同じ言葉で、自分と同じ世界(世俗)のことについて話す姿を見て、神像が砕け散ってしまった感覚だったのではないでしょうか。彼らも、この現実の延長に私と同じく存在している私と同じ人間なんだという事実にショックを受け、目が覚めてしまうように。

 少しズレますが、アイドルとは「偶像」という意味です。アイドルの俗っぽい不祥事に幻滅してしまうというのはよく聞くお話です。また、楽屋ノリが苦手だという人人も。

 

・趣味がガラリと変わる時

 妹が昔はジャニーズにハマっていたのに、今ではすっかり韓流アイドルにお熱で、何かが引っかかるという話をしてくれた方がいました。

好きなモノが変わる時、内側ではどんな変化が起こっているのか気になる。またジャニーズと韓流では、歌詞や容姿、演出の特徴に差があり、同じアイドルでも趣味やセンスが異なります。なので、急に他ジャンルの虜になっているのが、少し不思議に感じるという趣旨だったかと思います。

 お姉さん本人にすれば、「好きなモノ」は自分の性格や価値観と密接に結びついており、つまり急に全く別センスのものを好きになることは考えづらいし、むしろ新しく好きになるモノはそれまでの自分の趣味と連綿としていて、ファッションや好きな映画、思想などその人の周辺アイテムにはなんらかの一貫性が生まれるはずだという意見でした。冒頭のブレストでは、「居場所」「人生の核」「一生の趣味」などのキーワードが挙げられましたが、好きという気持ちと自己表現やアイデンティティとは深い部分でつながっている気がします。

 このエピソードに対しては、自身の成長に合わせて好きなモノは変わっていくと言った意見や、「好き」という気持ちがピークを越えるとその曲線は下降をたどり(=飽きる?)、再び好きのピークを味わうために別のモノを好きになると言った様々な意見が出ました。

 また「好き」は、私たちの内側から沸き起こる気持ちですが、時にそれは、外側からの刺激によってたらされる、もしくは左右される場合があります。例えば、「流行」がその一例です。もしかすると2年後にはパクチーが好きだと自認する人の数は今よりも減っているかもしれません。与えられたモノの中から好きを選び取るという感覚が頭を過ぎります。他には、他人を媒介にする例もあります。つまり、好きな人の好きなモノに興味関心を持ってしまうということです。

 

 

 

⑵好きなモノは人に教えたい?教えたくない?

 自分の好きなモノは他人にも共有するか、それとも独占し自分だけのモノにしておくかについて話し合いました。

 一人目の方は、独占したい気持ちに理解を示してくれました。「この人たちは私のことを歌っている」。好きなモノにはその人の個人的な事情や感情が託されており、それを何も知らない第三者と簡単には分かち合いたくないという意見でした。また、自分だけが知っている理解できるという優越感も存在していると。

 二人目の方は、行動心理学における「特殊性の欲求」について話してくれました。確かマイナーバンドがメジャーデビューした途端に聴かなくなってしまうのは、他人との差異、つまり自身の特殊性を求めるからだという説明でした。

 三人目の方は、素晴らしいモノは共有したくなってしまうという意見でした。大好きな友人の良さは皆んなにも知ってもらいたいという気持ちです。しかし、同時に私だけの友人が皆んなのモノになってしまった気がして、ほんの少し寂しい気持ちが残ったという経験も話してくれました。

 矢島グループのある方は、「自分の本当の気持ちは絶対に他人には教えることができない、知られてはならない」ということを話してくれました。内側の内側にあるサーモンピンク色(もっと臓器色なのかも)をした生柔らかくて繊細な感情。私たちは「本当の気持ち」をコーティングするように、「⚪︎⚪︎が好きです」と他人に話しているのかもしれません_

 

 

 

⑶道徳や倫理を越えて沸き起こる感情

 この世に出回っている「好きなモノ」の殆どは、良識や他者の視線などの検閲を受けた安全で無害なモノなのではないか。幼い頃、自分の好きな色や好きなキャラクターが周りの同級生と違っていて不安を覚えたり自罰的になった経験がある人はいませんか。「好き」とは、自身の内側からどうしようもなく湧き上がってくる感情であり、時に周囲の評価基準とはかけ割れてしまう非常に厄介な感情なのかもしれません。

 快楽主義者とは、赴くがままに欲望を撒き散らす人のことではなく、好きという感情と道徳や倫理観による抑圧のバランスについて、他の誰よりも繊細に見据えている者のことを指すのかもしれません。

 

 

 

YANグループ

⑴モノへの「好き」と人への「好き」

 この話が一番多く話されました。まず多くの人はこの分け方に沿って考えていましたが、中にはこの二つを分けないで考える方もいました。モノへの「好き」という感情が現れるとき、それはそれに共感したり、心のモヤモヤを言語化していたりと自分の感情と大きくリンクしているという話が上がりました。一方で人への「好き」は自分と相手の関係性が重要な性質の一つであり、双方的な感情の動きがあるのではないかという論が展開されました。束縛や嫉妬といったキーワードも上がりました。またモノには時間的な概念を用いず「好き」という感情が芽生えるのに対し(2次元のキャラクターは歳をとらない)、人には時間的な概念を用いて「好き」が生まれる(その人との将来を見据えて感情が芽生える)という話も興味深かったです。

 

 

 

⑵対象のなにが好き?

 「サークルはその活動自体が好きなのか、それともそのコミュニティ所属する人々が好きなのか」という話から自分が好きな対象のどの部分が好きであるのかという話が上がりました。その対象が決して複雑でなければないほど、この話は深く展開され、きっかけとして持った気持ちと時間が成熟し今思う気持ちとには大きな変化があるということに気づきました。

 

 

 

⑶「好き」の反対は「嫌い」?

 「好き」についてある程度話が進むと、対義語について議論されました。「好き」の反対が「嫌い」ではなく、「無関心」なのではないかというのはよく聞く話です。ではなぜその理論が広がっているのか。「好き」の反対は本当に「嫌い」ではないのか。これに対して場合分けされたある考え方が上がりました。「好き」という気持ちには2つの見方があります。それはベクトルとボリュームです。感情のベクトルとして「好き」を見る場合はその反対は「嫌い」になり、興味のボリュームとして「好き」を見るとその反対は「無関心」になるのではないかという考えです。