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【哲学カフェ】#06「6月の魅力」振り返り

2018/05/26

6回バニラカフェ

6月の魅力」

 

⒈開催の主旨

 

 梅雨や祝日が無い等の理由から疎まれがちな6月。そんな6月ならではの魅力を発掘する。また話題が広がっていく過程で、参加者がその他にも新たな気付きを獲得する。

 

⒉実際の対話のおおまかな様相

 

 冒頭にブレインストーミングを実施し、6月に対する印象や連想されるイメージを自由に出し合いました。

 

 そこで挙げられたキーワードは、雨(梅雨)に関連するものが多く、更にその大半は、ネガティブな印象を伴ったものでした。

 

 「雨の日は不便で不快だということは認めざるを得ない。6月は雨季であり雨の日が多く、よって6月は疎まれる」で参加者の意見は先ず一致しました。

 

 通学時に自転車に乗れず、通常よりも早く家を出なければいけない。その際に傘を差さなければならず、片手が塞がれてしまうので、荷物を上手に持つことが出来ない。そして、学校に到着した時にはズボンの裾や肩口が濡れ靴下は浸水し、湿った肌に張り付くような不快感を抱えたまま講義を聴くことに。湿気から髪型や化粧も乱れてしまっている。楽しみにしていたスポーツも雨天中止に。帰宅すると、部屋干しの臭いが充満。

 

 このように実生活における実益を評価基準に雨の日を記述すると、いかに不利益を被りまた肌感覚レベルでも不快感を感じるか納得できました。利便性や快適性、生産性を意識して活動をする際には、雨天はそれらを低下させる要因になり得ており、故に私たちは雨を邪険に扱うことになります。

 

 しかし一方で、雨粒を弾く紫陽花や降り出した瞬間の雨の匂いに心が反応したり、土砂降りに気分が高揚することも事実として確かにあります。

 

 一見すると相反するような上記の二つの事実をどう整理し解釈するかが、対話の中心に据えられていた気がします。

 

 ある参加者が「雨を感じる人もいれば、濡れるだけの人もいる」という発言をされましたが、同じ雨でも実益から遠い観点から捉えると、評価がまた違ったものになり、それが一つの魅力たり得るのではないかという話になりました。対話中では、情緒や詩というキーワードが出ました。

 

⒊その他印象に残っている話題の断片

 

・飲食店には雨の日割などのサービスがあるので実利的な良さもある

雨に唄えばを聴きながらだと気持ちが良い。世界を劇場化する。

・大雨で小学校が早退きになって楽しかった思い出がある。子供の頃は大雨、大雪の非日常感に興奮した。

・衣替えに象徴されるように、6月には、夏の前触れを感じ待ち遠しく心踊る気持ちがあった。

・雨に打たれると子供の頃を思い出す。現在では郷愁のトリガーに。

・雨の日のドライブが好き

・映画にて恋人同士が抱き合うシーン、雨が降っていないといけない時もある。表現としての雨。

・例えば12月に梅雨があった場合、クリスマスや年末を今までのように楽しめるのか。時期的に6月に梅雨があって良かった。梅雨を良いタイミングで消費できるのが6月の魅力。

【哲学カフェ】#03「LINE上のコミュニケーション」振り返り

 

 

2018/03/16個人カフェ振り返り

LINE上のコミュニケーション」

 

 先日は個人カフェに参加して頂きありがとうございました。LINEを使用する上で、個人がどんな点に意識を払っているのかを共有することができ、有意義な話し合いになりました。対話のなかで挙げられた話題を簡単にですがまとめさせて頂きました。

 

 

⑴既読について

 真っ先に「既読」「返信」に関する話題が挙がりました。既読無視という言葉があります。既読をつけているにも関わらず、返信をしない状態を指しているのですが、既読をつけてから返信するまでのラグには幅があって、「既読からどれくらいの時間が経つと人は既読無視と感じるのか」が話し合いの出発点に。本人には無視をする意図がなかったり、未読スルーの方により強い違和感を覚える人がいたりと様々な意見が出ました。

 

Aさん

・無視には二種類ある。うっかり無視と意図的無視。うっかり無視は返信はできないがメッセージの内容を確認したいときに既読にして、そののまま忘れてしまうことが多い。

・既読無視の判断基準は時間ではなく回数。既読がついてどれくらい時間が経ったかでそれを既読無視とみなすのではなく、既読無視をその相手から何回されるかという回数で判断している。

 

Bさん

・既読無視の方が未読無視よりも「見た」という意思表示になるので返信するかしないかは別として基本的には既読をつける。

 

CさんDさん

・すぐに返信できないのなら既読をつけない。既読をつけてから返信するまでのタイムラグをできるだけ無くしたい。

スマホを触れる状態ならば返信が来たらすぐに返す。一旦置いておく理由がない。

 

Eさん

・相手を急かしている印象を与える可能性があるので返信の早さ。(既読の早さ)は意識する。

 

 

 

 

 

 

⑵顔文字絵文字論

 テーマ文でも触れたように、メッセージの文面において私たちは語尾などに絵文字や顔文字、(笑)などを添えることがあります。そこには、各人ごとの理由や基準があり、それについても話し合いました。「wの数で意味の違いが生まれる」などの界隈に通じているからこその知識や、(笑)とwの使い分けマイルールなど、とても興味深い話し合いになりました。

 

Bさん

・基本的には絵文字顔文字は使わない。?!オンリー。機種によって化けてしまうこともあるので。

 

Aさん

・顔文字は横長では探すのが面倒臭い。

・相手に合わせる(相手が絵文字使いなら絵文字を、顔文字使いなら顔文字を)

・履歴から使うことがほとんど。

 

Eさん

・笑いの種類は大きく分けて3つ。笑、(笑)、w

wの数でも意味が変わってくる。www www

w全角は普通の笑い。半角はウザさ。

・おじさんくさい顔文字や出会い厨くさい顔文字は使わない。特殊顔文字は使う。

 

Cさん

・表現の幅を狭めるために自分で決めた3種類顔文字しか使わない。

 

Dさん

・ちょうどいい絵文字は「天使がにっこりしているやつ」。好意を含めた諸々の感情に対応できる。

・顔文字絵文字はLINEの冷たい感じを消してくれるもの。

wは使いたくない。匿名感がないと使えない。ネット文化を日常生活に持ち込みたくない。

・顔文字は古臭い。

スラングは他のコミュニティで使うのはよろしくない。

 

LINEはリアルなモノ?

 ある方から「LINEは実名&実写真でやるべき」という意見が出ました。そこから、LINEとは、リアルな人間関係に即したfacebook的な存在なのか、それともtwitterアカウント的存在なのか、その二面性について話し合いました。実感としては、LINEは本人性と強く結びついている感じがしますが、しかしアカウントのレイアウトは個人の趣味によって多種多様(アニメアイコンだったり、あだ名だったり)で、またfacebookのような友達の友達的な広がりもありませんし、その両面性を感じることができ、個人的にはとても良い話題であったと思います。スマホ以前に携帯電話を長く使用していた世代にとってはメールアドレスの延長線上にLINEを位置づけている気もしますし、現実の人間関係を広げていくための名刺のように感じている人もいるでしょう。その一方で、知り合い同士、「わかる」人とだけ連絡を取り合うことができれば良いと考えている人もいました。

 

Bさん

・誰が誰なのか分からず、現実的な事務処理に困ることがあるので、プロフィールは実名&本人の顔写真を設定してほしい。

Twitterとは異なり、複数アカウントが作れない。

 

Eさん

・恥かしいから本名は出さない。

・飽き性なのでプロフィールのアイコン、ヘッダー、一言はけっこう変える。

  • 自分のページの世界観を大切にしている。

 

Aさん

・猫のアイコン画像は適当で適度。

 

Dさん

プロフィール画像は自分の趣味の画像。誰かと話すきっかけにもなるかもしれない。

・本名を使っておけばそのほかのプロフ情報は自由なのでは?

・一言欄を更新するとかまってちゃんだと思われる。

 

 

 

 

 

⑷スタンプ

 皆さんは普段どんなスタンプを使いますか?公式スタンプ、クリエイターズスタンプ、企業コラボスタンプいろいろあります。

 

Eさん

・スタンプは買わない。アカウントが消えたときに残らないし、人に送るモノに金をかけたくないから。データに課金する人の気持ちがわからない。

・でも、LINEカメラには課金してしまう。

 

Dさん

・無料のスタンプを送るのは相手に失礼なのでは?

・今までは無料スタンプしか送られてこなかったのに、有料スタンプを送られるようになると、その人との距離感が縮まったのではと思うことがある。

 

Cさん

・お互いに共有しているコンテンツならば有料のスタンプを送る。共有していなければ個性の押し付けになる可能性があるので送らない。

 

Fさん

・無料のスタンプの方が、卒がなくて良い。

・無料のスタンプの中でセンスの良いものを選び、個性を出す。

 

 

 

 

 

 

⑸気持ちの推し量りあい

 既読のタイミングや返信の速度、文章量やメッセージのノリなど。私たちはお互いに、それらから相手の気持ちをリアルタイムで汲み取り、それに準じた振る舞いをするように心がけていることが分かりました。それは、実際に対面した時の人間関係によく似ていると感じます。ある方が冒頭のブレストでも、「メールとLINEの違い」というキーワードを挙げてくれましたが、LINEのそのような「推し量りあい」は、「頭で考える」よりも「身体で感じ取る」もののように思えます。メールやお手紙、はたまたレポートなどの「頭で考えて書く」文章よりも、LINEは「フィジカルな言葉」な気がするのです。「フィジカルに話す」ことが苦手な人って少なくない気がします。

 

個人ライン

Eさん

・返信速度や文章量、は相手に合わせる。

・疑問形を送ると回答待ちになってしまうので気をつける時がある。

 

グループライン

Eさん

・グループLINEの中では言及せず、襖から覗くように様子を見る。

Bさん

・グループLINEに投下された質問に対して誰も反応がないと気持ちが悪い。

・無関係でも無関係だということを返信する。

Dさん

・誰かしらが反応するだろうと思って投下する内容は大体返信されない。

【哲学カフェ】#02「好きってどんな気持ち」振り返り

 



2018/03/02哲学カフェ振り返り

「好きってどんな気持ち」

はじめに

 先日は個人カフェに参加していただきありがとうございました。振り返りの報告が遅くなってしまい申し訳ありません。どんな話題が上がったかについて、その一部を簡単にですがまとめさせて頂きました。

 

 

 

山岸グループ

好きが冷める瞬間

 ある人が、「その瞬間には確かに起こっていた感情が、その後では、ふと我に返ったように消えてしまうことがある」という経験を話してくれました。

それはまるで、注がれる熱湯の流動に乗って、くるくると舞い上がっていた茶葉が、やがてポットの底に沈んでしまうようだと。

  山岸グループでは、そんなエピソードと冒頭でのブレストを踏まえた上で「好きが冷めてしまう瞬間」「それはどうしてなんだろう」という問いから対話をスタートしました。各人がそれぞれの経験を語ってくれました。

 

・崇拝の対象

 別の人のお話です。その人には大好きなマイナーバンドがあって、ライブにも通い続ける数年来のファンでした。ある日のライブで、ついにバンドのメンバーから個人的に声をかけられたそうです。一見すると、憧れの人から顔を覚えられ話しかけられるというのは、ファンにとって嬉しい出来事であるはずなのに、その人は、なぜかその瞬間に、そのバンドへの今までの気持ちがガラガラと崩れていく音を聞いたそうです。その日を境に、現場からもフェードアウト気味になってしまいました。

 そのバンドへの好きは「崇拝」に近い感情だったのではないかという意見が話し合いの中で出てきました。

 ここでの崇拝とは、超人間的、非世俗的なカリスマ性に深く魅了され、その可能性を強く信じ込む気持ちとでも言いましょうか。私たちがステージ上の表現者に馳せる想いの一つに、「夢や希望(=可能性)を信じたい」があるかと思います。真実の愛を唄う。完全な美を体現する。これらは、自分の生きる「あまりに現実的」な現実を超え出る可能性を私たちに魅せてくれます。

 その人にとって、そのバンドは、フロアとステージという決して繋がることのない距離で隔てられた遥か彼方の存在であり、だからこそ崇拝の気持ちが維持されていた。そんな雲の上の存在が、自らステージを降り、自分と同じ目線から、自分と同じ言葉で、自分と同じ世界(世俗)のことについて話す姿を見て、神像が砕け散ってしまった感覚だったのではないでしょうか。彼らも、この現実の延長に私と同じく存在している私と同じ人間なんだという事実にショックを受け、目が覚めてしまうように。

 少しズレますが、アイドルとは「偶像」という意味です。アイドルの俗っぽい不祥事に幻滅してしまうというのはよく聞くお話です。また、楽屋ノリが苦手だという人人も。

 

・趣味がガラリと変わる時

 妹が昔はジャニーズにハマっていたのに、今ではすっかり韓流アイドルにお熱で、何かが引っかかるという話をしてくれた方がいました。

好きなモノが変わる時、内側ではどんな変化が起こっているのか気になる。またジャニーズと韓流では、歌詞や容姿、演出の特徴に差があり、同じアイドルでも趣味やセンスが異なります。なので、急に他ジャンルの虜になっているのが、少し不思議に感じるという趣旨だったかと思います。

 お姉さん本人にすれば、「好きなモノ」は自分の性格や価値観と密接に結びついており、つまり急に全く別センスのものを好きになることは考えづらいし、むしろ新しく好きになるモノはそれまでの自分の趣味と連綿としていて、ファッションや好きな映画、思想などその人の周辺アイテムにはなんらかの一貫性が生まれるはずだという意見でした。冒頭のブレストでは、「居場所」「人生の核」「一生の趣味」などのキーワードが挙げられましたが、好きという気持ちと自己表現やアイデンティティとは深い部分でつながっている気がします。

 このエピソードに対しては、自身の成長に合わせて好きなモノは変わっていくと言った意見や、「好き」という気持ちがピークを越えるとその曲線は下降をたどり(=飽きる?)、再び好きのピークを味わうために別のモノを好きになると言った様々な意見が出ました。

 また「好き」は、私たちの内側から沸き起こる気持ちですが、時にそれは、外側からの刺激によってたらされる、もしくは左右される場合があります。例えば、「流行」がその一例です。もしかすると2年後にはパクチーが好きだと自認する人の数は今よりも減っているかもしれません。与えられたモノの中から好きを選び取るという感覚が頭を過ぎります。他には、他人を媒介にする例もあります。つまり、好きな人の好きなモノに興味関心を持ってしまうということです。

 

 

 

⑵好きなモノは人に教えたい?教えたくない?

 自分の好きなモノは他人にも共有するか、それとも独占し自分だけのモノにしておくかについて話し合いました。

 一人目の方は、独占したい気持ちに理解を示してくれました。「この人たちは私のことを歌っている」。好きなモノにはその人の個人的な事情や感情が託されており、それを何も知らない第三者と簡単には分かち合いたくないという意見でした。また、自分だけが知っている理解できるという優越感も存在していると。

 二人目の方は、行動心理学における「特殊性の欲求」について話してくれました。確かマイナーバンドがメジャーデビューした途端に聴かなくなってしまうのは、他人との差異、つまり自身の特殊性を求めるからだという説明でした。

 三人目の方は、素晴らしいモノは共有したくなってしまうという意見でした。大好きな友人の良さは皆んなにも知ってもらいたいという気持ちです。しかし、同時に私だけの友人が皆んなのモノになってしまった気がして、ほんの少し寂しい気持ちが残ったという経験も話してくれました。

 矢島グループのある方は、「自分の本当の気持ちは絶対に他人には教えることができない、知られてはならない」ということを話してくれました。内側の内側にあるサーモンピンク色(もっと臓器色なのかも)をした生柔らかくて繊細な感情。私たちは「本当の気持ち」をコーティングするように、「⚪︎⚪︎が好きです」と他人に話しているのかもしれません_

 

 

 

⑶道徳や倫理を越えて沸き起こる感情

 この世に出回っている「好きなモノ」の殆どは、良識や他者の視線などの検閲を受けた安全で無害なモノなのではないか。幼い頃、自分の好きな色や好きなキャラクターが周りの同級生と違っていて不安を覚えたり自罰的になった経験がある人はいませんか。「好き」とは、自身の内側からどうしようもなく湧き上がってくる感情であり、時に周囲の評価基準とはかけ割れてしまう非常に厄介な感情なのかもしれません。

 快楽主義者とは、赴くがままに欲望を撒き散らす人のことではなく、好きという感情と道徳や倫理観による抑圧のバランスについて、他の誰よりも繊細に見据えている者のことを指すのかもしれません。

 

 

 

YANグループ

⑴モノへの「好き」と人への「好き」

 この話が一番多く話されました。まず多くの人はこの分け方に沿って考えていましたが、中にはこの二つを分けないで考える方もいました。モノへの「好き」という感情が現れるとき、それはそれに共感したり、心のモヤモヤを言語化していたりと自分の感情と大きくリンクしているという話が上がりました。一方で人への「好き」は自分と相手の関係性が重要な性質の一つであり、双方的な感情の動きがあるのではないかという論が展開されました。束縛や嫉妬といったキーワードも上がりました。またモノには時間的な概念を用いず「好き」という感情が芽生えるのに対し(2次元のキャラクターは歳をとらない)、人には時間的な概念を用いて「好き」が生まれる(その人との将来を見据えて感情が芽生える)という話も興味深かったです。

 

 

 

⑵対象のなにが好き?

 「サークルはその活動自体が好きなのか、それともそのコミュニティ所属する人々が好きなのか」という話から自分が好きな対象のどの部分が好きであるのかという話が上がりました。その対象が決して複雑でなければないほど、この話は深く展開され、きっかけとして持った気持ちと時間が成熟し今思う気持ちとには大きな変化があるということに気づきました。

 

 

 

⑶「好き」の反対は「嫌い」?

 「好き」についてある程度話が進むと、対義語について議論されました。「好き」の反対が「嫌い」ではなく、「無関心」なのではないかというのはよく聞く話です。ではなぜその理論が広がっているのか。「好き」の反対は本当に「嫌い」ではないのか。これに対して場合分けされたある考え方が上がりました。「好き」という気持ちには2つの見方があります。それはベクトルとボリュームです。感情のベクトルとして「好き」を見る場合はその反対は「嫌い」になり、興味のボリュームとして「好き」を見るとその反対は「無関心」になるのではないかという考えです。

【哲学カフェ】#01「自分のために生きるか他人のために生きるか」振り返り

 

2018/2/20個人カフェ振り返り

テーマ「誰かのため/自分のために生きるとは」

 

はじめに

 先日は、個人カフェに参加して頂き、ありがとうございました。各人が日常生活のなかで一度は考えたことのあるテーマであって関心度も高く、充実した話し合いとなりました。

 ファシリ担当から、対話の内容について、その雑感を簡単にですがまとめさせて頂きました。メモや当時の記憶を基にして、僕たち自身の理解や感想をまとめているので、参加者の発言の意図が汲み取り切れていなかったり、その人にとって大事にしていたニュアンスが抜け落ちてしまっているかもしれないのですが、ご容赦ください。また、この振り返りは、決してテーマに対する一般理論や最終的な結論、メンバーの総意ではなく、一部このような話題が挙げられたという報告ですので、その点も前もってご理解いただければと思います。

 山岸のグループ、YANのグループそれぞれの班ごとにまとめます。

 

 

山岸のグループ

⑴「誰かのため」は「自分のため」なのか

 冒頭に今回のテーマに対する率直な考えを尋ねたところ、グループの多数の方が次元の違いはあれども、「大前提として自分のために生きている」と答えました。その上で、他人に対してどのように接するかについて、長い時間をかけて話し合っていた気がします。

 

Aさんは、他人に利益を与えるよう振る舞う時、そこには自覚しているかは別としても「自分の喜びのため」という動機があると発言しました。

 

Bさんは、誰かにプレゼントを渡す時、そこには「下心」が存在していると発言しました。その人に対する「好意」や「興味関心」から、関係を発展させる事や相手に自己アピールをする事を目的として贈り物をするのだという趣旨でした。それに対して、別の人からは、単純な感謝を伝えたくて贈り物をする事(リターンを求めない)もあり得るという意見も出ました。

 

・そもそも「自分のために」という言葉からは、「selfish」「egoistic」というようなイメージが先行して浮かんでくるが、実際はどうなのだろうという意見が出ました。必ずしも「自分のため」=「自分の利益のためになら、他人にいくら迷惑をかけても構わない」ではなく、 またその言葉には、「自立」や「自己責任」という意味合いも含まれているのではないかという意見でした。反対に、「誰かのために」という言葉には、他者依存的な考え方が漂っているのではないかとも。

 

Cさんは、他者から必要とされ、役割や目的を与えられる事によって、自身の存在価値を保証するために利他的な行為をするのではないかと発言しました。そういう意味でも自分のためとしての行為なのではないかという意見でした。しかし、場合によってそれは決して積極的な選択の元に行われている行為ではなく、相手との望まない依存関係がゆえ、もしくは、洗脳状態や心が弱っておりセルフコントロールが失われた状態においても往々にして起こりうる事態で、そのような状態の人に「自分のため(にやっているんだから不満を垂れるな)」や「自己責任(だから自業自得)」と言うような言説を当てはめるのは適当かどうかという話にもなりました。

 

Dさんは、どうすれば見返りを求めない、また相手に返礼の気持ちを思い起こさせないような振る舞いが出来るだろうかと発言しました。この問いについては、志賀直哉の小説『小僧の神様』においても主題として掲げられており、また人類学や教育学などでは、「純粋贈与」という概念で論じられています。

 

⑵赤の他人

 ここでは私以外の人間を「他人」と呼びます。他人には種類があり、「私が関心を抱く、もしくは抱かざるを得ない他人」と「私が関心を抱かない(無関心な)他人」(=赤の他人)に大別する事ができます。例えば、友人や同僚は前者であり、電車で車両を同じくする人は後者です。

 そして、Eさんは、前者に対してのみ私は利益を与える行為ができるのではないかという意見でした。それはなぜなら、彼らの利益や所属する集団の利益が、自分自身の利益と関係してくるからです。そのことから、利他性は、「他人と赤の他人との境界線、範囲の問題」という切り口から考えることができるのでないかとの意見が出ました。

 関心を抱く他人を赤の他人に対して、仮に「身内」と呼びます。身内という感覚を共有する範囲内であれば、そのメンバーに対して利他的に振る舞うことできるということです。境界線ははっきりと存在するのか、あるいは関心度の多寡によってグラデーションのようになっているのかもしれません。

 この説で電車の問題を考えた場合、見知らぬ人にでも席を譲ることが出来るのは、その人が赤の他人ではなく、利他性を発揮できる身内の範囲内に入っているという風に説明できます。(身内の範囲がめちゃくちゃ広い。まあでも、私たちがオリンピックで日本代表を応援するのも同じ理由なのか!?)

 

しかし、電車の問題において、この説に当てはまらない例もたくさん出ました。

・内的な倫理観による自律心から

・紳士的態度(マナー)

・義務感

・周りの視線から(でも無関心な人たちにどう思われようが、痛くも痒くもないのではという疑問も残る)

・自分が不快だから

・美意識

 

 また、別のテーブルの方との話し合いの中で、無関係だからこそ優しく振る舞うことができるのでは、という意見も出ました。一定の距離を置いている方が人間関係が上手くいくというのも実感として頷けます。

 

⑶人間らしさ、私らしさの追求

 教室空間における「みんな仲良く」「助け合い」という標語が例に取れるように、私たちの感じる利他性や他者への義務感、はたまた見て見ぬ振りの後ろめたさとは、社会がうまく回るために、教育や人間関係を通じて、社会の側から埋め込まれた(インプットされた)ものなのではないかという意見が後半に出ました。また、より高い視点から、利他性とは動物の本能としてあらかじめプログラムされた感情なのではないかという意見も。それはつまり、「他者への気遣い」とは、必ずしも自発的な意思とは言い切れないのではないかという疑問です。

 それを踏まえた上で、「自分は自分のためだけに生きたい」という姿勢からは、予定調和への抵抗、また「本当の人間らしく、私らしく(個人らしく)生きるとはなにか」「意思して生きるとはなにか」を追求する強いこだわりのようなものを感じました。

 

 

 

YANのグループ

⑴みんなが言っていたこと

Aさん

・行動と感情が異なる

・ストーカーの意識→自覚がない→片思いの延長(相手に気づいてもらいたい)

・「お土産」「プレゼント」→その人のため→喜んでもらえない時ショック

・「人のことを叱る」→100%他人のため(労力というコストを払うから)

・誰もが自分を「偽善者」と思うのがイヤ→その人のためになっていると思いたい

・「それは結果としてではなく、あらかじめ自分のためを思ってした行動?」

 どこまで想定するかどうか、自分の意志の問題

 

Bさん

・誰かのために生きたいけど、それが本当に誰かの幸福になっているのかわからない

・誰かのためと思っていても、相手のためにはなっていない行動

 ()ストーカー、好きな女に貢ぐ男

ストーカー          相思相愛

もらう側→嬉しくない     もらう側→嬉しい

あげる側→満足        あげる側→満足

・席を譲り、その人が笑顔になる

 自分は安心

これは自分のため?

・相手の心の中はわからないから相手のレスポンスで判断するしかない

・「見返り」があるかないかを論じている時点でそれは自分のための意識が根底にあるのでは?

・我々が考えるべきは自分が何のために何をするかではなく、

 自分のためにしてくれた行動に対してどういうレスポンスをするか、では?

 

Cさん

・家族や友人などの近しい存在に対しての行動の方が「自分のため」

 セーフティネット=家族

・倫理的な問題

・主観のみの行動

・自分のためにやっている行動をしていて、それに関して誰も文句を言っていなければ

 それは問題ないのでは?

・「誰かのために」という気持ちが先行すると持続しない

 

Dさん

・誰かに「してあげる」→上下関係ができてしまいそうでイヤ

・関係が近い人に対しての行動ほど自分のため(依存)

・プレゼントやお土産はあげない方がいい説→誰かのために「あげない」という選択

・誰かのために行う行動は必ず自分のためであると説明できる

・誰かのための行動は100%できないから、それなら自分のために行動した方がいい

100%誰かのためになることは果たしてないのか、、、?

 臓器提供は、、、?

 相手は臓器が機能して生きることができる

しかしそれと同時に誰かの体の中にその人がずっと生きられるとも考えられる。

 両方にメリットがあるのでは?

 

⑵まとめ

その行動が自分のためになるかならないか、誰かのためになるかならないかで分類しました。

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⑶結論

一つの行動を見て、それが「自分のため」なのか「誰かのため」なのかの二択で判断するのではなく、その一つの行動の中に両方の要素があり、二つの度合いを考えると、自分のためにも相手のためにもなっていることがあるということが分かりました。