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【哲学カフェ】#01「自分のために生きるか他人のために生きるか」振り返り

 

2018/2/20個人カフェ振り返り

テーマ「誰かのため/自分のために生きるとは」

 

はじめに

 先日は、個人カフェに参加して頂き、ありがとうございました。各人が日常生活のなかで一度は考えたことのあるテーマであって関心度も高く、充実した話し合いとなりました。

 ファシリ担当から、対話の内容について、その雑感を簡単にですがまとめさせて頂きました。メモや当時の記憶を基にして、僕たち自身の理解や感想をまとめているので、参加者の発言の意図が汲み取り切れていなかったり、その人にとって大事にしていたニュアンスが抜け落ちてしまっているかもしれないのですが、ご容赦ください。また、この振り返りは、決してテーマに対する一般理論や最終的な結論、メンバーの総意ではなく、一部このような話題が挙げられたという報告ですので、その点も前もってご理解いただければと思います。

 山岸のグループ、YANのグループそれぞれの班ごとにまとめます。

 

 

山岸のグループ

⑴「誰かのため」は「自分のため」なのか

 冒頭に今回のテーマに対する率直な考えを尋ねたところ、グループの多数の方が次元の違いはあれども、「大前提として自分のために生きている」と答えました。その上で、他人に対してどのように接するかについて、長い時間をかけて話し合っていた気がします。

 

Aさんは、他人に利益を与えるよう振る舞う時、そこには自覚しているかは別としても「自分の喜びのため」という動機があると発言しました。

 

Bさんは、誰かにプレゼントを渡す時、そこには「下心」が存在していると発言しました。その人に対する「好意」や「興味関心」から、関係を発展させる事や相手に自己アピールをする事を目的として贈り物をするのだという趣旨でした。それに対して、別の人からは、単純な感謝を伝えたくて贈り物をする事(リターンを求めない)もあり得るという意見も出ました。

 

・そもそも「自分のために」という言葉からは、「selfish」「egoistic」というようなイメージが先行して浮かんでくるが、実際はどうなのだろうという意見が出ました。必ずしも「自分のため」=「自分の利益のためになら、他人にいくら迷惑をかけても構わない」ではなく、 またその言葉には、「自立」や「自己責任」という意味合いも含まれているのではないかという意見でした。反対に、「誰かのために」という言葉には、他者依存的な考え方が漂っているのではないかとも。

 

Cさんは、他者から必要とされ、役割や目的を与えられる事によって、自身の存在価値を保証するために利他的な行為をするのではないかと発言しました。そういう意味でも自分のためとしての行為なのではないかという意見でした。しかし、場合によってそれは決して積極的な選択の元に行われている行為ではなく、相手との望まない依存関係がゆえ、もしくは、洗脳状態や心が弱っておりセルフコントロールが失われた状態においても往々にして起こりうる事態で、そのような状態の人に「自分のため(にやっているんだから不満を垂れるな)」や「自己責任(だから自業自得)」と言うような言説を当てはめるのは適当かどうかという話にもなりました。

 

Dさんは、どうすれば見返りを求めない、また相手に返礼の気持ちを思い起こさせないような振る舞いが出来るだろうかと発言しました。この問いについては、志賀直哉の小説『小僧の神様』においても主題として掲げられており、また人類学や教育学などでは、「純粋贈与」という概念で論じられています。

 

⑵赤の他人

 ここでは私以外の人間を「他人」と呼びます。他人には種類があり、「私が関心を抱く、もしくは抱かざるを得ない他人」と「私が関心を抱かない(無関心な)他人」(=赤の他人)に大別する事ができます。例えば、友人や同僚は前者であり、電車で車両を同じくする人は後者です。

 そして、Eさんは、前者に対してのみ私は利益を与える行為ができるのではないかという意見でした。それはなぜなら、彼らの利益や所属する集団の利益が、自分自身の利益と関係してくるからです。そのことから、利他性は、「他人と赤の他人との境界線、範囲の問題」という切り口から考えることができるのでないかとの意見が出ました。

 関心を抱く他人を赤の他人に対して、仮に「身内」と呼びます。身内という感覚を共有する範囲内であれば、そのメンバーに対して利他的に振る舞うことできるということです。境界線ははっきりと存在するのか、あるいは関心度の多寡によってグラデーションのようになっているのかもしれません。

 この説で電車の問題を考えた場合、見知らぬ人にでも席を譲ることが出来るのは、その人が赤の他人ではなく、利他性を発揮できる身内の範囲内に入っているという風に説明できます。(身内の範囲がめちゃくちゃ広い。まあでも、私たちがオリンピックで日本代表を応援するのも同じ理由なのか!?)

 

しかし、電車の問題において、この説に当てはまらない例もたくさん出ました。

・内的な倫理観による自律心から

・紳士的態度(マナー)

・義務感

・周りの視線から(でも無関心な人たちにどう思われようが、痛くも痒くもないのではという疑問も残る)

・自分が不快だから

・美意識

 

 また、別のテーブルの方との話し合いの中で、無関係だからこそ優しく振る舞うことができるのでは、という意見も出ました。一定の距離を置いている方が人間関係が上手くいくというのも実感として頷けます。

 

⑶人間らしさ、私らしさの追求

 教室空間における「みんな仲良く」「助け合い」という標語が例に取れるように、私たちの感じる利他性や他者への義務感、はたまた見て見ぬ振りの後ろめたさとは、社会がうまく回るために、教育や人間関係を通じて、社会の側から埋め込まれた(インプットされた)ものなのではないかという意見が後半に出ました。また、より高い視点から、利他性とは動物の本能としてあらかじめプログラムされた感情なのではないかという意見も。それはつまり、「他者への気遣い」とは、必ずしも自発的な意思とは言い切れないのではないかという疑問です。

 それを踏まえた上で、「自分は自分のためだけに生きたい」という姿勢からは、予定調和への抵抗、また「本当の人間らしく、私らしく(個人らしく)生きるとはなにか」「意思して生きるとはなにか」を追求する強いこだわりのようなものを感じました。

 

 

 

YANのグループ

⑴みんなが言っていたこと

Aさん

・行動と感情が異なる

・ストーカーの意識→自覚がない→片思いの延長(相手に気づいてもらいたい)

・「お土産」「プレゼント」→その人のため→喜んでもらえない時ショック

・「人のことを叱る」→100%他人のため(労力というコストを払うから)

・誰もが自分を「偽善者」と思うのがイヤ→その人のためになっていると思いたい

・「それは結果としてではなく、あらかじめ自分のためを思ってした行動?」

 どこまで想定するかどうか、自分の意志の問題

 

Bさん

・誰かのために生きたいけど、それが本当に誰かの幸福になっているのかわからない

・誰かのためと思っていても、相手のためにはなっていない行動

 ()ストーカー、好きな女に貢ぐ男

ストーカー          相思相愛

もらう側→嬉しくない     もらう側→嬉しい

あげる側→満足        あげる側→満足

・席を譲り、その人が笑顔になる

 自分は安心

これは自分のため?

・相手の心の中はわからないから相手のレスポンスで判断するしかない

・「見返り」があるかないかを論じている時点でそれは自分のための意識が根底にあるのでは?

・我々が考えるべきは自分が何のために何をするかではなく、

 自分のためにしてくれた行動に対してどういうレスポンスをするか、では?

 

Cさん

・家族や友人などの近しい存在に対しての行動の方が「自分のため」

 セーフティネット=家族

・倫理的な問題

・主観のみの行動

・自分のためにやっている行動をしていて、それに関して誰も文句を言っていなければ

 それは問題ないのでは?

・「誰かのために」という気持ちが先行すると持続しない

 

Dさん

・誰かに「してあげる」→上下関係ができてしまいそうでイヤ

・関係が近い人に対しての行動ほど自分のため(依存)

・プレゼントやお土産はあげない方がいい説→誰かのために「あげない」という選択

・誰かのために行う行動は必ず自分のためであると説明できる

・誰かのための行動は100%できないから、それなら自分のために行動した方がいい

100%誰かのためになることは果たしてないのか、、、?

 臓器提供は、、、?

 相手は臓器が機能して生きることができる

しかしそれと同時に誰かの体の中にその人がずっと生きられるとも考えられる。

 両方にメリットがあるのでは?

 

⑵まとめ

その行動が自分のためになるかならないか、誰かのためになるかならないかで分類しました。

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⑶結論

一つの行動を見て、それが「自分のため」なのか「誰かのため」なのかの二択で判断するのではなく、その一つの行動の中に両方の要素があり、二つの度合いを考えると、自分のためにも相手のためにもなっていることがあるということが分かりました。